俳句の鑑賞

秋来ぬと目にさや豆のふとりかな

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる

この手のパロディがとても好き。
特に名歌と名高いものをうまくすくい上げた一品は、本歌とあわせて二度おいしい。

俳句なんて、全然読まないし詠まないけれど、なぜかパロディはとっても好き。

それがどうしてなのか、ちょっと考えてみました。


一言で結論をまとめてしまえば、パロディの魅力は原作とのギャップの大きさにある、となる。

目には見えない秋を歌う原作に対して、目に見える、しかもさや豆なんていう庶民めいたもので秋の到来を歌っているのが、それ。
原作が貴族的な優雅さの中に潜ませる「どや、いいことゆったやろ?」という自慢たらたらな態度に釘を指すかのように、目に見えるどストレートな表現を用いている。
この句のスパンとした切れ味を生む、第一のポイントだ。

さらに、原作は「風の音」という、はかなく形のない軽やかなものを歌うのに対して、こちらは「ふとり」という、ずっしり手ごたえを感じさせる重みのある言葉をあてている。
「ふとり」は視覚でとらえるけれど、どこか手触りとつながるオノマトペでもある。
確かに感じられる秋の実りをよく表した歌である。

この歌にどこか明るさを感じるのは、秋の豊穣をことほぐ、古代的なおおらかさがあるからだろう。
文学の中の秋といえば、さびしいものと相場が決まっている。
秋風といえば、つめたく、恋仲に飽きを生む、さびしさの象徴だ。
しかし、古代の秋は、万物が実る豊かな季節だった。
この歌は、こうした古来の原初的な秋への感性をみずみずしくたたえている。
だからこそ、この歌は、底抜けに明るく、どこか懐かしさをも感じさせるのだろう。

なーんて、主観丸出しの文章ですが、久しぶりに文学について語ってしまいました。
ちょこちょこ続けていきたいな。
(と思って、三日坊主なんだけど)

清澄白河

アドマチック天国の特集がとってもよかったからずっと行きたい行きたいと思っていた清澄白河にとうとう行ってきました!

滞在時間は小一時間でしたが、こじんまりしたハイセンスな町にほくほく。



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ここがfukadaso(深田荘)。
一階のカフェには入らず、二階の「りかしつ」へ。

古い集合住宅をリフォームしたところで、ぴっかぴかに光る廊下がたまらない!
カフェというよりも建築目当てだったので、壁や柱をしげしげ眺めてしまいました。


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ちょっとしたインテリアにも心配りがあります。



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その後、てくてく歩き、陶器を扱う「青木堂」に向かいます。
トルコブルーのお皿がきれいすぎて思わず手に取りましたが、いいお値段なのでまた今度。
見てるだけでも満たされます。



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途中で立ち寄ったお寺。
この小さくて角張った感じがいかにも江戸のお寺って感じがする。
京都のはもう少し奥まったところでふんわりしているけれど、江戸のほうがからりとしてて、粋だと思う。

江戸六地蔵のひとつも鎮座まします。
お地蔵さんの中でも最大級なのではないかしら。



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その後、青木堂の横のTEAPONDへ。
紅茶専門店なんて初めてなのでもじもじしてると、慣れた雰囲気の人が茶葉が入ったガラス瓶を手に取り、香りをかぎ始めた。
きれいな飾りなのかと思っていたけど、実用的なものなのですね。
いろいろかぎくらべた結果、ライチフレーバーの紅茶を買いました。
よく考えたらカフェインそんなに得意じゃないけど、昼に飲めばいいか。

こうしてあっという間にタイムオーバー。
もっとゆっくりするために、また来たいなあ。