俳句の鑑賞

秋来ぬと目にさや豆のふとりかな

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる

この手のパロディがとても好き。
特に名歌と名高いものをうまくすくい上げた一品は、本歌とあわせて二度おいしい。

俳句なんて、全然読まないし詠まないけれど、なぜかパロディはとっても好き。

それがどうしてなのか、ちょっと考えてみました。


一言で結論をまとめてしまえば、パロディの魅力は原作とのギャップの大きさにある、となる。

目には見えない秋を歌う原作に対して、目に見える、しかもさや豆なんていう庶民めいたもので秋の到来を歌っているのが、それ。
原作が貴族的な優雅さの中に潜ませる「どや、いいことゆったやろ?」という自慢たらたらな態度に釘を指すかのように、目に見えるどストレートな表現を用いている。
この句のスパンとした切れ味を生む、第一のポイントだ。

さらに、原作は「風の音」という、はかなく形のない軽やかなものを歌うのに対して、こちらは「ふとり」という、ずっしり手ごたえを感じさせる重みのある言葉をあてている。
「ふとり」は視覚でとらえるけれど、どこか手触りとつながるオノマトペでもある。
確かに感じられる秋の実りをよく表した歌である。

この歌にどこか明るさを感じるのは、秋の豊穣をことほぐ、古代的なおおらかさがあるからだろう。
文学の中の秋といえば、さびしいものと相場が決まっている。
秋風といえば、つめたく、恋仲に飽きを生む、さびしさの象徴だ。
しかし、古代の秋は、万物が実る豊かな季節だった。
この歌は、こうした古来の原初的な秋への感性をみずみずしくたたえている。
だからこそ、この歌は、底抜けに明るく、どこか懐かしさをも感じさせるのだろう。

なーんて、主観丸出しの文章ですが、久しぶりに文学について語ってしまいました。
ちょこちょこ続けていきたいな。
(と思って、三日坊主なんだけど)