12月のたそがれ

その空がいちばんきれい。

文学研究者と美術評論家:文学部不要論に寄せて

文学研究者と美術評論家とは相似の関係にある。両者は、自らは芸術を生み出さない。作家ないし芸術家が生み出したものに解釈を加えるのが役目だ。考えようによっては、芸術家さえいれば芸術は発展していくのだから、解釈を専門に行う人間など必要ないようにも思える。

しかし、と考えてみる。

美術館に遊びに行った時に、解説が全くない状態で作品を見て、素直に心を動かせる人間というのは、案外少ないのではないだろうか。たいていは、作品の説明を見てはじめてその作品の工夫に気づいたり、込められた意図に驚いたりするのがふつうのように思われる。また、美術品が雑然と並んでいるよりも、企画展のように、まとまって配列されている方が美術鑑賞はおもしろみが増す。こうして、企画展の来場者をどこまで増やせるかが、美術評論家の腕の見せ所だ。

文学研究者が書く論文とは、まさにこの、企画展そのものではないかと思われる。作家の作品をどれだけ読み手におもしろいと思わせるか。それが、文学研究者の腕の見せ所であり、一番の仕事だろう。

私の恩師がかつて言っていた。中国文学がほかの文学ほどに世の中で愛されていないのは、まだまだ研究の質が低いからだと。

質の高い研究とは、大人気の企画展を指すと考えれば、この言葉はすとんと腹に落ちてくる。

文学研究、ひいては文学部は不要だ、という向きも聞かれるが、世の美術館から企画展が消滅してしまったら、残念がる人はけっこういるわけで、それだけでも存在する価値は、十分にあるように思われる。人が、知的発見に喜びを感じる限り。

なーんて、固いことを考えたら眠れなくなりました。おやすみー。