文学研究者と美術評論家:文学部不要論に寄せて

文学研究者と美術評論家とは相似の関係にある。両者は、自らは芸術を生み出さない。作家ないし芸術家が生み出したものに解釈を加えるのが役目だ。考えようによっては、芸術家さえいれば芸術は発展していくのだから、解釈を専門に行う人間など必要ないようにも思える。

しかし、と考えてみる。

美術館に遊びに行った時に、解説が全くない状態で作品を見て、素直に心を動かせる人間というのは、案外少ないのではないだろうか。たいていは、作品の解説を読んではじめてその作品の工夫に気づいたり、込められた意図に驚いたりするのがふつうのように思われる。また、美術品がショーケースに雑然と並んでいるよりも、企画展のようにまとまって配列されている方が作風の変遷や作品間の関係性がわかりやすく、観る側の想像力を刺激する。こうして、企画展の来場者をどこまで増やせるかが、美術評論家(キュレーター)の腕の見せ所だ。

文学研究者が書く論文とは、まさにこの、企画展そのものではないか。作家の作品をどれだけ読み手におもしろいと思わせるか。それが、文学研究者の腕の見せ所であり、一番の仕事だろう。

私の恩師がかつて言っていた。中国文学がほかの国の文学ほどに世の中で愛されていないのは、まだまだ研究の質が低いからだと。

質の高い研究とは「大人気の企画展」に値すると考えれば、この言葉はすとんと腑に落ちる。論文は、文学作品と人々をつなぐメディアなのだ。

文学研究、ひいては文学部は不要だ、という向きも聞かれるが、世の美術館から企画展が消滅してしまったら、残念がる人は多い。それだけでも存在する価値は、十分にあるように思われる。人が、知的発見に喜びを感じる限り。

なーんて、固いことを考えていたら眠れなくなりました。おやすみー。