マネジメントへの憤り

上司の業務設計が悪いせいで、器用な若手に業務が集中する一方で、「働かないおじさん」が定時で帰宅する。そんな風景は、日本の津々浦々に見られる光景だろうと思う。

そして、器用な若手が業務設計の見直しを上司に訴え出たとしても、「君はもっとがんばれると思っていたけどね、惜しいな」などと(なぜか)哀れみの目を向けられるだけに終わるというのも、よくある話だ。

体力にものを言わせることができる人間ならば、気合で乗り切る働き方もいいと思うが、世の中には、体が弱い人間というのもいる。そうした人間にとっては、知力で解決せずに体力で何とかしようとする人間の試みは、承服しかねるし、何より馬鹿馬鹿しく思える。

マネジメントの仕事とは、何であるのか。

たしかに、「働かないおじさん」と器用な人とがいれば、後者に仕事を回したくなる、上司の気持ちはもっともだ。でも、そうして器用な側が、第2の「働かないおじさん」になる危険性も、あるのではないか。

なぜ、私だけが、無理をしなければならないのか。あそこに、働かなくても同じ給料の人間が、のうのうと暮らしているではないか。ならば、私もそうすればよい。

個人のプライドの高さに依存した組織体制は、もろく、危うい。

仕事ができる人間に仕事を任せた方が、効率は上がる。しかし、それはマネジメントがラクをするための禁断の裏技なのではなかろうか。

そもそも、できる人間に仕事を積むだけがマネジメントの仕事であれば、マネジメントなどいらない。そんなことは、自然の摂理なのだから。

君には期待している、という言葉があるが、その裏には、期待しない誰かがいる、ということだ。その、期待しない誰か、を動かすための知恵が、マネジメントなのではないか。

マネジメントの仕事とは、常人には耐え難いほど難しい。だからこそ、その職務に専念しなければいけない。それができる人間でなければ、マネージャーではない。ただの、仕切り屋だ。