マネジメントへの憤り
上司の業務設計が悪いせいで、器用な若手に業務が集中する一方で、「働かないおじさん」が定時で帰宅する。そんな風景は、日本の津々浦々に見られる光景だろうと思う。
そして、器用な若手が業務設計の見直しを上司に訴え出たとしても、「君はもっとがんばれると思っていたけどね、惜しいな」などと(なぜか)哀れみの目を向けられるだけに終わるというのも、よくある話だ。
体力にものを言わせることができる人間ならば、気合で乗り切る働き方もいいと思うが、世の中には、体が弱い人間というのもいる。そうした人間にとっては、知力で解決せずに体力で何とかしようとする人間の試みは、承服しかねるし、何より馬鹿馬鹿しく思える。
マネジメントの仕事とは、何であるのか。
たしかに、「働かないおじさん」と器用な人とがいれば、後者に仕事を回したくなる、上司の気持ちはもっともだ。でも、そうして器用な側が、第2の「働かないおじさん」になる危険性も、あるのではないか。
なぜ、私だけが、無理をしなければならないのか。あそこに、働かなくても同じ給料の人間が、のうのうと暮らしているではないか。ならば、私もそうすればよい。
個人のプライドの高さに依存した組織体制は、もろく、危うい。
仕事ができる人間に仕事を任せた方が、効率は上がる。しかし、それはマネジメントがラクをするための禁断の裏技なのではなかろうか。
そもそも、できる人間に仕事を積むだけがマネジメントの仕事であれば、マネジメントなどいらない。そんなことは、自然の摂理なのだから。
君には期待している、という言葉があるが、その裏には、期待しない誰かがいる、ということだ。その、期待しない誰か、を動かすための知恵が、マネジメントなのではないか。
マネジメントの仕事とは、常人には耐え難いほど難しい。だからこそ、その職務に専念しなければいけない。それができる人間でなければ、マネージャーではない。ただの、仕切り屋だ。
今日のみそ汁(茄子)
前回、茄子と油揚げのみそ汁を作った際に、茄子の皮から色が抜けてしまい、油揚げがくすんでしまう過ちを犯した。こたびはその雪辱戦である。
まず、茄子の皮をピーラーできれいに剥く。油揚げは水を吸って膨らむことを見越してやや小さめにカット。鰹節パックで出汁を取り、一口大に切った茄子と油揚げを投入。煮立たせてから溶き卵を回しかけ、火を止める。
ここで前回と趣向を変えて秋田味噌を溶かし込んだところ、どうも味が落ち着かない。茄子のエモイワレヌ味のせいで、みその風味が負けている。
そこで、前回同様、香りの強い信州味噌の配分を増やす。うん、これだ。茄子には信州味噌の方が合うのだ。発見だ。
しかし、出来上がって食べてみるに、前回ほどの味わいもない。茄子が少々固いようだ。火を通す時間は大して変わらないはず。茄子の皮には身をやわらかくする働きでもあるのだろうか……。
さらに改善の余地があるというところで、今夜は就寝。おやすみなさーい。
今日のみそ汁
大根の千切りに油揚げ、そして落とし卵。
油揚げを小さめに切ったのがよかった。うまい。
金融システム(有斐閣アルマ)No.1
何も意識しなければ、歴史物か哲学物、随筆に流れてしまう。そこで、教養の幅を広げるために、有斐閣アルマ『金融システム』を購入。経済学は未知の領域だけれど、政治経済を語る上で避けて通れぬ道なれば、挑戦してみよう。
金融とは何か?
そもそも「金融」という言葉がわからない。「金」が「融ける」と書いて金融。どういうことなんだろうかと思っていたら、「資金融通」の略語だそう。なぜそこの二文字で略したんだ⁉︎
現在お金が足りていない借り手が、お金を余らせている貸し手から資金を借りることによって、将来に儲けるであろう資金を先取りできる。この、「将来所得の現在所得化」が金融の役割の1つ。キャッシュフローを生むことで経済を活性化させているのだ。
新たな金融の役割
ただ、資金の融通だけが金融の役割ではなくなってきたらしい。デリバティブと呼ばれる金融商品によって、資金融通に伴うリスクも融通できるようになった。このデリバティブの誕生が金融の役割を大きく変えたそうなのだが、これはのちに詳しく扱うというので、今はふれない。
ということで、今日はここまで。なかなか読み進まないけれど、まとめを作りながらゆっくり消化していきたい。まずは、金融の言葉の由来がわかってすっきりした。
スタジオジブリ レイアウト展
すばらしかった。
なぜもっと早くに行かなかったんだろう。
単純な鉛筆の線でこんなにも強い世界観を表すことができるなんて、人間ってすごいな、と思った。
展覧のしかたも角度をつけていて、千と千尋のゾーンは、五メートルほどの三面の壁いっぱいにレイアウトが敷き詰められていて、まさに圧巻。
なんでもグラフィックソフトでできてしまう時代だけれど、根幹には鉛筆があるんだ。
人間って、捨てたもんじゃない。
ルイボスティーと家庭教師
ルイボスティーを初めて飲んだのは、まだ学生だったころ、家庭教師のお宅で夕食後の歓談をしている時だった。
当時のわたしは、下宿から往復3時間電車に揺られて、3人姉妹を教えに行っていた。長女はテコンドー、次女は薙刀、三女は空手という武闘派姉妹である。
お母さんは気立てのよい方で、家族そろっての夕食の席に毎回招いてくれた。そこで生まれて初めて口にしたものがなかなかに多い。手作りのキッシュ、湯引きした鱧、てっちり鍋(これは外食)。見たこともない立派な食卓は、もちろん、裕福な家庭ということもあっただろうけれど、このおうちの、食を楽しむ気持ちの表れだったように思う。
ルイボスティーは、その頃今ほどメジャーな地位にはなく、まだまだ変わりものだった。身体にいいみたいよと勧められて、飲んだ。甘みがあるが、どこかえぐみのある、正直言ってあまり好みではない味。それでも、毎回出してもらうコーヒーが少し苦手だった(とも言い出せない)わたしは、それ以来代わりにルイボスティーをいただくようになった。
その甲斐あってか、今ではパック詰めを買って、こうして毎晩飲んでいる。ビバ、ノンカフェイン。
今ごろあの一家はどうしているだろう。こうしてたまに、思い出している。