ルイボスティーと家庭教師

ルイボスティーを初めて飲んだのは、まだ学生だったころ、家庭教師のお宅で夕食後の歓談をしている時だった。

当時のわたしは、下宿から往復3時間電車に揺られて、3人姉妹を教えに行っていた。長女はテコンドー、次女は薙刀、三女は空手という武闘派姉妹である。

お母さんは気立てのよい方で、家族そろっての夕食の席に毎回招いてくれた。そこで生まれて初めて口にしたものがなかなかに多い。手作りのキッシュ、湯引きした鱧、てっちり鍋(これは外食)。見たこともない立派な食卓は、もちろん、裕福な家庭ということもあっただろうけれど、このおうちの、食を楽しむ気持ちの表れだったように思う。

ルイボスティーは、その頃今ほどメジャーな地位にはなく、まだまだ変わりものだった。身体にいいみたいよと勧められて、飲んだ。甘みがあるが、どこかえぐみのある、正直言ってあまり好みではない味。それでも、毎回出してもらうコーヒーが少し苦手だった(とも言い出せない)わたしは、それ以来代わりにルイボスティーをいただくようになった。

その甲斐あってか、今ではパック詰めを買って、こうして毎晩飲んでいる。ビバ、ノンカフェイン。

今ごろあの一家はどうしているだろう。こうしてたまに、思い出している。

みそ汁を作る

プログラマーの友人に勧められて、みそ汁を作る。みそは一人暮らしを始めて2回しか買ったことがなく、2回ともみそ汁作りに挫折した身としては、3度目の正直である。

 

まずは、みそには産地があるということを知った。なるべく実家の味に近づけた方が旨く感じるに違いない。母に問い合わせると、東北のみそを使っているという。イトーヨーカドーで、秋田味噌350gを購入。

 

次に、出汁は取ったかと友人に確認された。一人暮らしを始めたばかりの私に、出汁なんていう概念はなく、当然、過去2回とも出汁は取っていなかった。さすがにあれから私も進歩をして、家にはちゃんと「ほんだし」がある。これを使おう。

 

ほんだしを溶かしたお湯に豚バラスライスともやしをたっぷり入れる。もやしって意外と縮むのか。秋田味噌を入れるときは火を止めて、そのあとは煮立たせない。風味が飛ぶなど気にも止めたことはなかったが、上手の教えは守っておく。

 

できた。

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 すでに旨そう。いや、旨い以外の選択肢はなかろう。

うむ、豚肉が甘い! これが、これが求めていたみそ汁である。

みそと出汁。みそ汁の構成要件の根幹を成す2点をおさえれば、旨いみそ汁は作れるのだ。

 

その後立て続けに、大根のみそ汁、なすと油揚げのみそ汁を作った。

大根はまずまずだが、大根だけだと寂しい。次は卵でも入れてみたい。

なすと油揚げは味は良かったが、なすから抜けた紫色が油揚げに染み付いて無残な色になってしまった。次は皮を剥くべきか。

今夜は豆腐と油揚げとわかめだ。油揚げはもう少し薄切りの方がいい。案外ふくらんでしまう。乾燥わかめは一度にたくさん入れるよりも、食べるたびに入れた方がよい。長くみそ汁に浸かっていると脱色してしまい、見た目がよくない。

 

それと、同じ味噌と出汁では飽きてしまったので、信州味噌と鰹節パックを買い足した。

変化がないと、飽きるものだ。プログラマーの彼は赤味噌白味噌をその時に応じて配合しているという。みそ汁の世界は、奥深い。

 

 

 

祭りの思い出

小さい頃から祭りが嫌いだ。
ただでさえ歩きにくい下駄を履かされたうえに砂利道なんて歩くから、足がすぐに砂ぼこりでいっぱいになる。
人混みをかき分けて進まなくてはならないのに、親や友達はぐんぐん先に進んでしまう。
そのうえ、すずめの涙ほどの小遣いでは、真っ赤なりんご飴やきらきら光るおもちゃの腕輪なんて買えない。チョコバナナの屋台でじゃんけんなんて、夢のまた夢だ。
それでも金魚すくいはやった。スイミーみたいな黒い金魚や、ひれの大きな赤い金魚は取れなかったけれど、普通の、どこにでもいるようなやつなら、不器用な私でも大丈夫だった。
家に帰って水槽に入れて、すぐに死んでしまうもいたけど、五年も生きたやつもいた。死ぬたびに、アパートの植え込みにそっと埋めて、なるべく平べったい石を選んで暮石の代わりにした。

楽しい思い出もあったに違いないのだが、祭りというとどうしても好きになれない。祭りは嫌いだ。

いや、嫌い、というより、不安、という方が合っているかもしれない。
世界から一人取り残されたような孤独感と焦燥感。周りはやたらと人が多く、みんな変に陽気だ。
いつもと違う、ささやかな日常の調和が失われていくさまが、恐ろしい。

だから、大人になった今でも祭りに行くのが、あまり好きではない。
周りが楽しんでいればいるほど、どんどん怖くなってくる。

それでも、年に一度は何かの祭りにうっかり足を踏み入れることがある。
そんなときは、少し戸惑いながら、金魚すくいの屋台を眺めたりしている。

俳句の鑑賞

秋来ぬと目にさや豆のふとりかな

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる

この手のパロディがとても好き。
特に名歌と名高いものをうまくすくい上げた一品は、本歌とあわせて二度おいしい。

俳句なんて、全然読まないし詠まないけれど、なぜかパロディはとっても好き。

それがどうしてなのか、ちょっと考えてみました。


一言で結論をまとめてしまえば、パロディの魅力は原作とのギャップの大きさにある、となる。

目には見えない秋を歌う原作に対して、目に見える、しかもさや豆なんていう庶民めいたもので秋の到来を歌っているのが、それ。
原作が貴族的な優雅さの中に潜ませる「どや、いいことゆったやろ?」という自慢たらたらな態度に釘を指すかのように、目に見えるどストレートな表現を用いている。
この句のスパンとした切れ味を生む、第一のポイントだ。

さらに、原作は「風の音」という、はかなく形のない軽やかなものを歌うのに対して、こちらは「ふとり」という、ずっしり手ごたえを感じさせる重みのある言葉をあてている。
「ふとり」は視覚でとらえるけれど、どこか手触りとつながるオノマトペでもある。
確かに感じられる秋の実りをよく表した歌である。

この歌にどこか明るさを感じるのは、秋の豊穣をことほぐ、古代的なおおらかさがあるからだろう。
文学の中の秋といえば、さびしいものと相場が決まっている。
秋風といえば、つめたく、恋仲に飽きを生む、さびしさの象徴だ。
しかし、古代の秋は、万物が実る豊かな季節だった。
この歌は、こうした古来の原初的な秋への感性をみずみずしくたたえている。
だからこそ、この歌は、底抜けに明るく、どこか懐かしさをも感じさせるのだろう。

なーんて、主観丸出しの文章ですが、久しぶりに文学について語ってしまいました。
ちょこちょこ続けていきたいな。
(と思って、三日坊主なんだけど)

清澄白河

アドマチック天国の特集がとってもよかったからずっと行きたい行きたいと思っていた清澄白河にとうとう行ってきました!

滞在時間は小一時間でしたが、こじんまりしたハイセンスな町にほくほく。



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ここがfukadaso(深田荘)。
一階のカフェには入らず、二階の「りかしつ」へ。

古い集合住宅をリフォームしたところで、ぴっかぴかに光る廊下がたまらない!
カフェというよりも建築目当てだったので、壁や柱をしげしげ眺めてしまいました。


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ちょっとしたインテリアにも心配りがあります。



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その後、てくてく歩き、陶器を扱う「青木堂」に向かいます。
トルコブルーのお皿がきれいすぎて思わず手に取りましたが、いいお値段なのでまた今度。
見てるだけでも満たされます。



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途中で立ち寄ったお寺。
この小さくて角張った感じがいかにも江戸のお寺って感じがする。
京都のはもう少し奥まったところでふんわりしているけれど、江戸のほうがからりとしてて、粋だと思う。

江戸六地蔵のひとつも鎮座まします。
お地蔵さんの中でも最大級なのではないかしら。



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その後、青木堂の横のTEAPONDへ。
紅茶専門店なんて初めてなのでもじもじしてると、慣れた雰囲気の人が茶葉が入ったガラス瓶を手に取り、香りをかぎ始めた。
きれいな飾りなのかと思っていたけど、実用的なものなのですね。
いろいろかぎくらべた結果、ライチフレーバーの紅茶を買いました。
よく考えたらカフェインそんなに得意じゃないけど、昼に飲めばいいか。

こうしてあっという間にタイムオーバー。
もっとゆっくりするために、また来たいなあ。